広告の「形而上学的な奇妙さ」とは

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広告の形而上学的な奇妙さとは?

「広告の時代」とまで言われている現代において、広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。

引用:岩井克人,1992,「広告の形而上学」『ヴェニスの商人の資本論』筑摩書房 114-124)

この問題、国語の読解の授業で扱われたりするようで、ネットを検索するとヒットします。なかなか噛み応えのある文です。

まずは、対比として挙げられている「貨幣」の性質を考えてみましょう。

貨幣とは
①あるものの価値を示す尺度
②それ自体の獲得に価値がある
という二面性があり、それを“奇妙”と表現しています。
奇妙と言わしめたのは、
貨幣の意味って確かに両方あるっぽいけど、どっちやねん。という感じ。

「広告」も貨幣と同じように奇妙。

簡単にいうと、
1.本来広告というものは商品を売るためのものなのに、広告それ自体も価値を持ち、流通している。

という状況があります。
稼ぐために広告を買う。或いは企業や活動存続のために広告を買う。
広告を買うということは、広告を売るということもある。
手法として使うことが本来の意義なのに、
それを獲得し所有することにも意義を持つ。
どっちも広告だけど、どっちやねん。という感じが奇妙です。

実務者的には、奇妙さはあまりなく「そーゆーもんだ」という納得感があったりします。実際に、郵便局行くと、郵便局の広告が行われている傍らで、広告枠として月いくらで郵便局内のポスター枠を売ってたりしますから。

じゃあなぜ、広告自身が売られるかというと

2.現代において
商品の違いを経験する以前に広告が提示され、広告で商品の違いが強調されることで、
広告という空間でそれぞれの広告間の対立を形成している社会がある。

という背景があるから、広告そのものに価値が生じている。

こんな社会的な仕組みができちゃっています。
これも実務者なら自明ですよね。
広告することが、実務者として当然になり
広告を見ることが、生活者として当然になっている。
広告と広告の間で、広告量と広告内容を巡って空中戦が行われる。

実際のところ、
広告することに意義があったりするところも正直ありますから。

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