広告効果がわからない=そもそもうまくいってない。
一方で、大半の広告は、そもそもうまくいってません。本来の目的である業績も上がらないし、活動に拍車がかかる訳でもありません。
ここで「広告効果」に白羽の矢が立つのですが、2つのアプローチがありますが、どっちも防衛的なアプローチです。ダメではありませんが、根本問題の解決には遠く、いずれも前提として“自分のやった広告は正しい”という認識に陥りがちです。
体感しえない小さな広告効果、広告効果として見ていない”影響”を探す。
→体感できないので、自分を含め組織の関係者が「それって意味あったの」と首をかしげる状態。どんな効果があったのか、可視化し立証しようと考えます。
小さすぎる効果、本来意図しない効果=影響は、組織の誰も関心がありません。
学術的には、広告効果が及んだ対象を証明する意味で意義あるのですが、まぁ、実務では、手掛かりや自分のアイデアストックに使えるものの、「効果を示せ」と言われた時には使っても、期待通りの反応は得られません。
目的と目標の貢献度を探す。
→広告目的が売上向上とし、広告目標が認知だとしましょう。
理屈上では、AIDMAを引くまでもなく、生活者の選択肢に乗せることで、商品選択の可能性を向上させる。こんな設計でやってみたものの、売上はピクリとも変わっていない。
しかし、広告目標が達成されたことを証明し、他の失敗要因が他にあると考える。まぁ、売上を構成する要素のうち広告がどの程度貢献しているか…という話。
関心はありますし、それを導く理論もありますが、それを提示したからといって、根本問題の解決にはなりません。徒労なので、このアプローチは実務的にはやめときましょう。
広告効果への追求=広告することへの疑義の目
問題は『目的が好転していない』ということ。
その原因が広告にあると疑義の目を向けられているという状況。
この状況を、まず冷静に受け止める必要がある。
たしかに、「金食い虫の広告がやり玉に挙げ易い」のだ。
なぜなら、趣味嗜好に走り易く華美なもの、そもそも好き嫌いがあり、合意形成のプロセスで強引にしていくと不満はここで破裂します。
さらに、かけた費用に対し得られるものが等しいとは思えないという効果の問題がここで噴出します。たかだか認知を得るために、何千万何億使っているんだ、こっちは爪の先に火を灯してるんだ。と、感情も混じってきます。
なぜなら、
広告の特性上、広告に対峙して人は冷静にいられないのだ。
これまで押さえていた感情が、うまくいかない事態をきっかけに噴出していく。
「広告効果がない」この売り言葉に買い言葉で「じゃあ広告効果を証明してやるよ」という流れは、あまり良くないですよね。
また、ちゃんと意思決定したじゃないですか、という結論を主張するのも的外れ。
皆、今回の結果と合意プロセスに不満をもっているのだ。
そうして、その責任を取るヤツがだれかを探している。
この最悪の事態をどう切り抜けるか。
そもそも、この最悪の事態を招いたのは、あなた自身なんですけれどね…。