広告するときの裏技

「広告の成立と3つの制度」広告賞・広告報道・広告の娯楽化

広告するときの実務を紹介。

実務的には広告を真面目に扱います。
それに関連する人たちも、広告を大真面目に扱います。

しかし、世の中はそうではありません。
疎んじ、問題視し、無視し、そして面白がる。誰も真面目にみちゃいない。

それでも、広告というものが社会の制度に組み込まれ、成立しているのはどうしてか。
過去を知ることは、これからの大きな手掛かりになります。社会という巨視的な流れを知り、組織という小さな集団へ応用することは十分できると考えます。

広告の効果と影響で触れた「影響」について、問題だ・有害だとする見方以外に、「面白がる」という見方があります。さらには、ひとつの芸術文化として見る方向もあります。このように、広告物が社会に影響を与え、それに社会がどのような仕組みをもって対応したのか。こういった広告史観で、難波功士氏は次のように表現しています。

「マス・ソサエティの産物として、広告(をめぐる社会システムの)本格的な成立は語られるべきなのである」
難波(2010)『広告のクロノロジー』P.11、世界思想社

では、
どのようにして広告が成立していったのか。

1つは、広告への褒賞制度
2つめに、広告ジャーナリスト
3つめに、広告のコンテンツ化

この3点を抜粋して見てみます。

 

広告の影響が、いかに社会制度として取り組まれたか。

難波功士氏による「広告のクロノロジー」(2010年 世界思想社)から3つのポイントを抜粋してみていきます。

広告への褒章制度

今に知られる広告賞の設立は、さして大昔という訳ではありません。

・ ADC賞 1957 年 東京アートディレクターズクラブ
・ ACC賞 1961 年 全日本シーエム放送連盟
・ TCC賞 1962 年 東京コピーライターズクラブ
(難波 2010、p.80)

こうした賞の前に、
1951 年に二科会 による『商業美術部門』が設置。
1951 年には日本宣伝美術会の設立、 1953 年から『日宣美賞』が開始される。

「五〇年代から六〇年代にかけて、広告制作の世界をリードし、何がいい広告(ないしグラフィック・デザイン)なのかを決める最高の権威として君臨した」
(難波 2010、p.97)

広告制作者の登竜門、あるいは目指す頂点として仕組みができあがり、良い広告というものが何かが構想されていくことになります。

広告ジャーナリスト

そうした専門的な世界をニュースとして扱う流れが1950年から出来上がります。

戦前『広告界』を率いた宮山峻によって五三年に創刊された『アイデア』
(難波 2010、p.98)
広告ビジネスやマーケティング記事の多い『宣伝会議』(同、p.98)
「広告とマーケティング」を標榜した『ブレーン』(同、p.79)

広告会社が小冊子として、広告に関する情報を発信することは現代もあります。

送り手でもなく、受け手でもない、中間のメディアとして広告を論じていく立場です。

広告の娯楽化

こうした、真面目に語られる広告に対し、広告が娯楽の1つとして扱われ始める。

「七〇年代は広告が広く大衆的な娯楽の一つとして受容され始めた時期であった」
(難波 2010、p.193)

テレビ番組でCM特集が組まれ、
1979年創刊された『広告批判』は、テレビと共に育った大衆文化というものを広告で切っていきます。

広告は、大衆文化のなかのすぐれて前衛的な表現
(天野祐吉、1979、『広告批判』、巻頭)

 

広告するときの裏技。
本来、多様で同一であることを忌避する広告を、如何にして一定の方向に向けるか。

歴史から学べることがあると考えます。

日本における広告の成立を、
難波功士氏の『広告のクロノロジー』から3つの手掛かりを引きました。

1つは、報奨制度

2つめに、広告ジャーナリスト

3つめに、娯楽化

いずれも制度としてあり、パワー(権力)がハイアラーキーの中で作られています。

広告を組織の中で安定して引きまわすために、部門や職位が所与された権力を使うことなく、組織内に構築した権力構造をいじる方が安定します。
どういうことかというと、宣伝部長や役員が「これがいい」という権力に座した独断決定よりも、仕組みの中で相互に意思決定される方がはるかに強固です。

実際に独断する人物が異動などで外れると、属人状態の決定は大きく変わることになります。一方で仕組みの中で意思決定されると、ルールとプロセスで決まっていくため、1人2人が異動で飛んだとしても、そうそう変わりません。

では、どんな仕組みを組織の中に作ればよいのか。

一つの考え方として、3つの制度がヒントになると考えます。

 

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